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zoom RSS Exhibition 横浜市歴史博物館 常設展「原始 II」

<<   作成日時 : 2015/04/14 23:30   >>

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横浜市歴史博物館常設展「原始 II」展示室の展示詳細


2015年4月10日
横浜市都筑区


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横浜市歴史博物館 常設展示室
http://hamacul.at.webry.info/201507/article_14.html







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横浜市歴史博物館


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常設展 原始 II 展示室


稲作と争いのはじまり
約2,400〜1,700年前

 弥生時代は、本格的な水田稲作と金属器の使用がはじまった時代です。しかし、新しい技術による生活の安定とともに、収穫物や金属器などの財産をめぐる、人々の争いが激しくなった時代でもありました。


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大塚・歳勝土遺跡の発掘

 都筑区の大塚・歳勝土遺跡からは、今から約2,000年前の弥生時代中期のムラと墓地が、完全な形で発見されました。
 このムラは、外敵の侵入を防ぐための大きな溝で囲まれていました。このような形のムラを環濠集落といいます。ムラの中からは、約90軒の住居跡がみつかりました。しかし、同時に建っていた住居の数は20〜30軒、人口は100人前後だったと考えられます。
 また、この遺跡からは、約1,800年前の弥生時代後期の小さなムラのあともみつかっています。


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弥生時代のはじまり


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弥生時代のはじまり

 縄文時代晩期から弥生時代前期にかけて、市域の遺跡は非常に少なくなり、ほとんど無人に近い状態になっていたと考えられます。ところが今から約2,000年前の弥生時代中期になると、急激に遺跡が増えはじめます。
 弥生時代の遺跡は、縄文時代とは異なり、川沿いの低地や谷戸の入口に近い台地の上に多くみられます
これは、当時の人々が、低地で稲作を行っていたことと関連していると思われます。
 このようにして市域の弥生時代が始まったのです。


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横浜にやってきた弥生時代人

 市域の弥生時代は、急激な遺跡の増加とともにはじまります。これは無人に近かった市域に、弥生時代中期になって、たくさんの人々が移住してきたを示しています。
 これらの人々が、どこからやってきたのか、まだはっきりしていません。ただ、このころの土器をみると、同じ時期の神奈川県西部から静岡県東部あたりのものに非常によく似ています。市域にやってきた人々のふるさとは、これらの地域のどこかにあったことが考えられます。


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人々の生活カレンダー

 弥生時代は水田稲作が生活の中心になった時代です。人々の労働も、稲作に関するものの占める割合が多くなったと考えられます。
 とはいえ、当時の稲作の技術はまだまだ未熟で、それだけで充分な食糧が得られたわけではありません。その不足を補うため、人々は、畑でムギやマメを作ったり、縄文時代と同様に狩りや漁、木の実の採集なども行っていました。
 稲作がさかんになったといっても、弥生時代人の生活は、まだ多くを自然に頼るものだったのです。


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弥生時代のムラ


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くらしの中のさまざまな道具

 弥生時代になると、煮炊き用の土器が多かった縄文時代とは異なり、ものを蓄えるための壺が発達しました。そして、壷と、煮炊き用の甕(かめ)、盛り付け用の高坏(たかつき)や鉢からなる、弥生時代の土器の基本的な組み合わせができあがりました。
 また、弥生時代には、新しい木材加工の技術や、機織りの技術、動物の骨を使った占いの方法などが朝鮮半島から伝わってきました。工具やアクセサリーに、鉄や青銅製のものがみられるようになったのもこのころです。


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ムラの中のくらし

 この模型では、とある秋の日の弥生時代のムラのようすを再現してみました。
 手前左の大きな建物は、ムラ長(おさ)の住居で、ここは集会所としても使われていました。その奥では、倉庫から稲穂を取りだして、その日に食べるお米の脱穀をしています。また、手前右の女性は機織りを、奥では男たちが協力して住居を建てています。
 ムラの外には、墓地がありました。家の長が亡くなったのでしょう。新しくつくられた方形周溝墓で埋葬が行われています。


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方形周溝墓の構造

 方形周溝墓とは、低い四角形の盛り土と四辺を囲む溝からなるお墓です。盛り土は長い間に崩れてしまうため、多くの場合、溝だけが発見されます。
 方形周溝墓は、家の長(おさ)が亡くなった時につくられ、長は木の棺(ひつぎ)に入れられ、盛り土の中央に葬られました。家族は溝の中に掘られた穴に埋葬され、子供の場合は、土器が棺として用いられました。
 このころの関東地方では、棺の中に品物をおさめる風習はありませんでした。ただ溝の中からは、墓に供えられた壷がたくさんみつかることがあります。


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溝で守られたムラ

 縄文時代にも小さな争いはありましたが、集団と集団との間の大規模な争いは、弥生時代からはじまったようです。それは収穫物、耕地、鉄などの財産をめぐっての争いだったと思われます。人々はムラの回りに環濠という大きな溝をめぐらして争いに備えました。
 市域では、このような溝で守られたムラ(環濠集落)がたくさん発見されています。環濠集落からは、争いによって焼かれたと思われる住居のあとが、数多く見つかります。


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弥生時代の人と物の流れ


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大塚・歳勝土遺跡のふるさと

 大塚・歳勝土遺跡のような、溝で守られたムラのかたちは、争いが激しくなるとともに自然にできあがったものなのでしょうか。どうやらそうではないようです。環濠集落というかたちは、水田耕作の技術とともに、朝鮮半島から日本列島にもたらされたのです。
 稲作が定着し、各地で争いが激しくなるなかで、環濠集落は、日本列島内に次々とつくられていきました。大塚・歳勝土遺跡は、その中でも東のはずれのほうに位置しています。


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土器の動きに見る弥生時代の交流

 弥生時代後期になると、市域には、それまでの土器から変化した久ヶ原式土器とともに、長野県方面の影響を受けた朝光寺原式土器、静岡県東部の影響を受けた相模湾岸系土器がみられるようになります。
 一方、弥生時代の終わりころになると、東海地方西部や近畿地方の影響を受けた土器が目立ってきます。このことは、この時期に東海地方西部や近畿地方との交流が活発になったことを示しています。そして間もなく、近畿地方を中心とした広い政治的なまとまりができはじめる、古墳時代を迎えることになるのです。


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学習する児童たち






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