blog横濱の文化探訪

アクセスカウンタ

zoom RSS Exhibition 横浜市歴史博物館 常設展「近世」

<<   作成日時 : 2015/07/30 14:06   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 1 / コメント 0


横浜市歴史博物館常設展「近世」展示室の展示詳細


2015年7月29日
横浜市都筑区


関連

横浜市歴史博物館 常設展示室
http://hamacul.at.webry.info/201507/article_14.html








画像


常設展 近世 展示室




画像


近世


平和の中に生きる人々
1590(天正18)年〜1859(安政6)年

近世は、江戸幕府を中心として、安定した社会が続いた時代です。人々は耕地の開発にエネルギーをそそぎ、村の生活も多彩になり、東海道には人や物資がさかんに行きかいました。


画像


茶屋「桜屋」と東海道の旅人たち

 神奈川宿の台町は、かつては海に面した高いところにあり、神奈川から本牧までの海をみわたせる景勝の地でした。そのため、台町には旅人が休む茶屋が多くありました。桜屋もこのような茶屋の一つで、東海道を往来する旅人や、江戸からの行楽客でにぎわいました。桜屋の位置は今の料亭田中屋あたりといわれています。
 当時の絵入の書物である「金川砂子」や「江戸名所図会」、また神奈川宿を題材にした浮世絵には、桜屋が描かれています。


画像


横浜には3つの宿場
茶屋「桜屋」と東海道の旅人たち

江戸時代、江戸と京都を結ぶ東海道には「東海道五十三次」と呼ばれるように、たくさんの宿場が置かれていました。横浜には神奈川宿、保土ヶ谷宿、戸塚宿がありました。
三つのうち一番規模が大きかったのが、江戸を出た将軍が最初に泊まる神奈川宿で、旅人や江戸からの行楽客でにぎわいました。
桜屋は神奈川宿の茶屋のひとつです。海に面した高台にあり、対岸の安房・上総(千葉県)まで見通すことができるほど見晴らしのよい店でした。


画像


新田開発と横浜




画像


横浜沿岸の新田開発

 近世に入ると、それまで戦いにむけられていた社会のエネルギーが耕地の開発へとむけられ、これまでにない大規模な開発が行われました。
 市域の場合、耕地の開発は主に海岸部を中心に行われ、鶴見川・帷子川・大岡川の河口周辺や平潟湾といった各地域で、海を埋め立てた新田がつくられました。
 現在、市の中心部として発展している関内駅や横浜駅の周辺も、実はこうした新田開発によって、陸地になった場所なのです。


画像


目で見る吉田新田

 市域の新田で、もっとも代表的なおのは吉田新田です。吉田新田は、現在の大岡川・中村川とJR根岸線に囲まれた釣鐘状の形をした地域で、伊勢佐木町などが含まれています。
 開発以前のこの地域は、山手と野毛の台地にはさまれ、山手から伸びていた横浜村の砂州によって外海と隔てられた入海でした。新田開発によって一面の耕地となり、その様相は大きく変化しました。
 現在では、都市化が進み開発当時の状況をうかがい知ることは困難になっています。


画像


海をうめて田んぼをつくる!?
目で見る吉田新田

江戸時代、新田づくりが盛んに行われました。横浜で最も代表的なものは吉田新田で、現在の大岡川・中村川とJR根岸線に囲まれた釣鐘状の形をした地域です。この新田開発によって、大きな入り江は一面の耕地となりました。今は、横浜の中心として大きく発展しています。


画像


吉田新田ができるまで

 吉田新田の開発は、1656(明暦2)年にはじまりましたが、翌年の大雨により潮除提が破壊されて失敗しました。1659(万治2)年に再び開発が行われ、1667(寛文7)年に完成しました。周囲を囲む堤防の長さが3,550間(約7キロメートル)におよぶ大工事でした。
 開発には多くの人々の努力がありましたが、その中心になったのは江戸の材木商であった吉田勘兵衛でした。吉田新田という名前も、吉田勘兵衛の名字に由来しています。


画像


村のくらし




画像


村と名主

 近世における農民支配は、村を単位として行われ、年貢も村ごとに課せられました。こうした制度を村請制といいます。近世の市域には200以上の村がありました。
 こうした村は、同時に農民たちの生産と生活の場でもありました。村の代表である名主は、農民を支配するために領主が任命したものであり、年貢などの徴収に責任を負いました。また、水・肥料の利用や祭りなど村人が共同して行うさまざまな事柄のまとめ役ともなりました。


画像


米と村人

 市域の村々では、田植えや稲刈りといった稲作関係の農作業を中心に生活が繰り広げられました。こうした作業は、当時の人々が用いていた暦(旧暦)にもとづいて行われました。
 田や畑など耕地の生産力は、すべて米の量の単位である石高によって換算されていました。米を中心とする農作物のうち、ほぼ半分は年貢として領主や代官へ納められます。残りの半分は、まず翌年のための種籾として保存し、それ以外のものは自分たちの食糧にしたり、売って生活必需品などを買ったりしました。


画像


祭りのよろこび

 農民たちが、一年の行事のうちで、もっとも楽しみにしていたのは、鎮守の祭りです。そこでは、周囲の村々からも人々が集まり、神楽などが行われ、にぎやかな時をすごしました。
 市域では、夏と秋に多くの祭りが行われています。夏祭りにはそれまでの農作業の無事を感謝するとともに収穫時における豊作の祈願が、また秋祭りには収穫を感謝する気持ちがこめられていました。


画像


くらしの中の祈り

 近世の農民たちの生活は、それ以前と比較すると向上してはいますが、依然として天候などに大きく左右されていました。そのため、人々は、自然や神仏への祈りをくらしの一部として日常的に行っています。
 神社や寺へ奉納された絵馬には、人々のさまざまな願いがこめられています。また、人々はいろいろな機会を通じて「講」という寄り合いをもち、お互いのつながりを深めました。


画像


街道と湊




画像


信仰と道

 市域には、江戸と京都を結ぶ大動脈である東海道が通り、神奈川・保土ヶ谷・戸塚という3つの宿場がおかれていました。このほかにも中原街道や矢倉沢往還などの脇往還が通っていました。
 近世も中ころをすぎると、庶民にも経済的な余裕が生まれ、富士山・大山・鎌倉・江の島などの名所への旅行や、寺社への参詣も活発に行われるようになりました。
 こうした人々の往来により、街道と宿場は一層にぎわうようになりました。


画像


再現神奈川世界

 横浜が開港する以前、神奈川は市域の経済・政治・文化の拠点として繁栄しました。
 中世からの港であった神奈川は、近世に入り、宿場が成立すると、海の道と陸の道を結ぶ交通の要所として経済的に発展しました。
 近世の初めには、将軍の宿泊した御殿や、周辺の農村を支配した陣屋などの政治的施設がおかれました。また、人や物が集まり、豊かになった神奈川は、周辺地域の文化の中心地ともなりました。


画像


神奈川湊と海の道

 近世の神奈川湊は、陸上の道である東海道や神奈川道と結びつき、江戸湾(現在の東京湾)有数の港となりました。神奈川湊は江戸湾内だけでなく、全国各地と交易を行っていました。
 愛知県知多郡の「内海船」も神奈川湊に寄港した廻船の一つです。内海船などで各地から運ばれた物資は、神奈川湊を中継し関東の内陸部へ運ばれ、逆に内陸部から集められた物資は各地へ送られました。
 横浜が開港する以前、神奈川湊は海上交通の拠点として重要な位置を占めていたのです。






Copyright(C) Masaji 2014-2017

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(1件)

タイトル (本文) ブログ名/日時
Yokohama History Museum 横浜市歴史博物館 常設展示室
横浜市歴史博物館常設展示室パネル解説 ...続きを見る
blog横濱の文化探訪
2015/07/30 15:41

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
Exhibition 横浜市歴史博物館 常設展「近世」 blog横濱の文化探訪/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる