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zoom RSS Exhibition 横浜市歴史博物館 常設展「古代」

<<   作成日時 : 2015/07/26 09:57   >>

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横浜市歴史博物館常設展「古代」展示室の展示詳細


2015年7月15日
横浜市都筑区


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横浜市歴史博物館 常設展示室
http://hamacul.at.webry.info/201507/article_14.html








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常設展 古代 展示室




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古代


古代国家の誕生の中で
300年ころ〜1192(建久3)年

 古代は、力をつけた地域の首長のために古墳がつくられた古墳時代と、律令という法にもとづく国家がつくられた奈良・平安時代にわたります。
時代が大きく変わる中、人々は着実に生活を送っていたのです。


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よみがえる都筑郡衙

 8世紀になると、律令制のもと、全国は国という現在の県にあたる行政単位に分けられました。国は、いくつかの郡という単位から成り立ち、国には国府(こくふ)、郡には郡衙(ぐんが)とよばれる役所がおかれました。郡衙は、現在の市役所に相当します。現在の市域は、武蔵国都筑郡(つづきぐん)・久良郡(くらきぐん)を中心とし、橘樹郡(たちばなぐん)、相模国高座郡(たかくらぐん)・鎌倉郡にまでおよんでいます。 青葉区で発見された長者原遺跡は、武蔵国都筑郡の郡衙の跡です。ここでは、発掘調査の成果をもとに8世紀の初めころの都筑郡衙を復元しました。


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「都筑郡衙」は都筑郡の中心であった!
(古代の市役所 都筑郡衙)

奈良時代、国には国府、郡には郡衙という役所が置かれ、地域の支配を行っていました。調・庸などの税は郡衙に集められ、国府から都に運ばれていました。都筑郡衙の発見から、この時代から「都筑」という地名があったことや、この場所が都筑郡の中心であったことが分かります。


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谷戸を切り開くムラ




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開発の移り変わり

 古墳時代は前期・中期・後期に分けられ、各時期を通して、地域の首長・ムラの長(おさ)の指導のもと、耕地を手に入れる開発などが行われました。
 市域でも、前期・中期には、弥生時代以来のムラを統合した地域の首長を中心として、中小河川流域の耕地開発が進められたようです。
 後期になると、地域の首長の下にいたムラの長が実質的な力をもつようになり、谷戸の耕地の開発が積極的に進められました。


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谷戸へ伸びゆくムラ

 7世紀の前後には、谷戸の耕地開発が進みました。
 都筑区の柚ノ木谷でそのようすをみてみましょう。5世紀の後半、谷口には大きなムラ(矢崎山遺跡)ができあがり、これが母村(ぼそん)となり、次に早淵川対岸にもムラ(台坂遺跡)が営まれたようです。7世紀の前後には、谷の奥に子村(こそん)となるムラが次々につくられました。こうして谷奥への耕地開発が進んだのです。
 これは、耕地の開発が進む中で、人々がわき水を利用でき、開発の容易な谷の奥へと耕地を求めていったためであると考えられます。


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開発の指導者たちと古墳・横穴墓

 耕地の開発を指導した地域の首長やムラの長たちには、その地位を示す特別な墓がつくられました。
 4世紀の初めころから、地域の首長たちは、土を盛りあげた大きな墓に葬られました。これが古墳です。古墳には鏡・玉類・武具などの品々も埋葬されました。6世紀の後半からは、古墳とは別に横穴墓(よこあなぼ)という墓が数多くつくられるようになりました。横穴墓は、谷戸への開発を指導したムラの長とその親族の墓と考えられます。市域では、約90の古墳、約110か所の横穴墓群が発見されています。


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特別なお墓=「古墳}!?

古墳時代、耕地の開発を指導した地域の首長やむらの指導者たちは、その地位を示す特別な墓(古墳)がつくられました。横浜市内からは約90もの古墳と110か所の横穴墓が発見されています。古墳からは埴輪のほか、鉄製のよろい・かぶと、剣、鏡、土器など、さまざまな副葬品も出土しています。


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古代のムラ



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古墳時代のムラ

 古墳時代のムラは、数軒の竪穴住居、平地住居や高床倉庫が一つのまとまりとなり、それがいくつか集まって成り立っていました。ムラには祭りの場があり、また住居の近くには小さな畑もあったようです。
 この時代には、鉄製の農具の普及、住居内のカマドの設置、須恵器(すえき)という新しい器の使用といった生活の面での変化がありました。人々は、地域の首長・ムラの長のもとで、耕地の開発や古墳づくり、祭りなどを行っていたのです。


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古墳に葬られた人々

 古墳に埋葬されたさまざまな品物(副葬品)は、葬られた人物のすがた、力の強さ、近畿地方の首長や大王との関係などを教えてくれます。
 甲冑(かっちゅう)・鉄剣(てっけん)・鉄刀(てっとう)など数多くの武具や馬具をもつ青葉区の朝光寺原1・2・3号墳に葬られた人物は、近畿地方の首長や大王と関係をもった有力者だったと考えられます。
 また、戸塚区の上矢部町富士山古墳から出土した埴輪からは、盾をもって奉仕する人、馬や鳥など、葬られた人物を取り巻く人や物のすがたがうかがわれます。


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古墳時代の生活道具
須恵器とカマドの出現

 古墳時代には鉄製農具の進歩とともに、須恵器とカマドという新しい生活道具が登場しました。
 5世紀の中ころに朝鮮半島から須恵器を作る技術が伝えられ、近畿地方をとおして各地に広がりました。須恵器は、ロクロを使って形づくられ、窯で焼かれる新しい器で、祭りの時などに使われました。
日常生活には、土師器(はじき)という弥生土器の流れを引く素焼きの土器が使われていました。 また、5世紀の末ころから、竪穴住居に設けられたカマドにより、人々はこれまでの炉より効率よく煮炊きができるようになりました。


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律令制下のムラ

 律令制下のムラでも、人々の住まいは、古墳時代と同様に竪穴住居でした。しかし、このほかに掘立柱建物が多く見られるようになります。
 ムラの人々は、国家が口分田(くぶんでん)を支給し、税を取る単位としての「戸(こ)」にまとめられ、50戸で1里(郷(ごう)」とされていました。ムラの周囲には口分田を支給するため、条里制により整然と区画された田が広がっていました。人々には、祖、調、庸などの税が課せられ、それらは郡を治める郡司(ぐんじ)という役人によって集められていました。


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ムラのくらし

 奈良・平安時代の人々は、ムラの長のもと、農作業を中心に1年のくらしの暦をつくっていました。
 春、人々は木製や鉄製の農具を使って田畑をおこし、種を蒔き、苗を植え、豊作を祈る祭りを行いました。夏には草取り、鳥虫害の防除につとめました。また、この季節には、歌垣(うたがき)などの遊びもありました。秋には収穫を感謝する祭りが行われ、稲や特産物を税として納めました。農閑期の冬には、税として納めるための布を織ったり、役所での労働などにおもむきました。


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火葬墓の広がり

 8世紀の初め、仏教の教えにのっとり、天皇・貴族・僧侶の間で火葬がはじまり、次第に各地へ広がっていきました。
 横浜市北部は、川崎市とともに関東地方の中でも火葬墓が密集している地域です。市域では、火葬墓は平安時代の初めからつくられたようです。土師器(はじき)の甕(かめ)に火葬した人骨を納め、ムラはずれに埋めたものが多く、須恵器を利用したり、甕や坏(つき)を組み合わせた例もあります。また、副葬品として刀子(とうす)などの鉄製品や銭(ぜに)などが納められる場合もあります。葬られたのは、ムラの長や役人であったと考えられます。


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ムラと官人

 古代の役人(官人(かんじん))は、木簡(文字を書きつけた木札)を削る小刀と筆が必需品であったため「刀筆の吏(とうひつのり)」とよばれました。
 郡衙(ぐんが)の周辺にあるムラの有力者の中には、官人として郡衙において文書を作成する仕事などについた人もいたようです。
 都筑郡衙の跡である長者原遺跡周辺の古梅谷(こうめやと)遺跡、藪根不動原遺跡、受地(うけち)だいやま遺跡などからは、刀子(とうす)や砥石、位(くらい)をもつ人が着ける革帯(かくたい)の飾り具、墨書土器(文字が記された土器)などがみつかっています。


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郡衙をめぐる人と物




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発見された都筑郡衙

 青葉区の舌状台地の上にある長者原遺跡では、規則正しく並んだ大きな建物の跡が数多く発見されました。
 これらの建物の並び方は、平城京や大宰府、各地の国府や郡衙などにみられる「コ」の字型の建物配置に似ています。また、遺跡からは都筑郡を示す「都」と記された墨書土器、硯の破片が出土しています。
 これらのことから、長者原遺跡は武蔵国都筑郡の郡衙の跡であることがわかりました。


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国府へ 都へ 辺境へ

 律令制では、人々は調・庸などの税が課せられ、それを自分たちで都へ運ぶことになっていました。これらはまず郡衙に集められ、次いで国府へ運ばれ、そこから都へと運ばれました。また、兵役(へいえき)も課せられ、防人(さきもり)として遠く九州の大宰府へ行く者、兵士として北の多賀城などへ派遣される者もいました。
 一方、都からは「和同開珎」などの銭やさまざまな品物が運ばれてきました。市域で発見される近畿地方で作られたとみられる土器も、このような人と物の流れに乗ってもたらされたのです。


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武蔵国分寺の文字瓦

 741(天平13)年、聖武天皇により、仏教の力で国家を守るため、国ごとに国分寺と国分尼寺の建立が命ぜられました。
 武蔵国分寺(東京都国分寺市)では、国内の郡名や工人(こうじん、制作者)の名が記された瓦も使われました。「都」「久」などの字は、市域にあたる都筑郡・久良郡の瓦であることを示しています。こうした瓦は、それぞれの郡の依頼を受け、東京都八王子市や稲城市、埼玉県比企郡や大里郡にあった専用の窯で作られ、国分寺に納められたのです。


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武士たちの時代へ

 都筑区の神隠丸山遺跡では、周囲に溝をめぐらし、整った配置をもつ平安時代の建物跡が発見されました。これは、「富豪(ふごう)」とよばれた有力者の館と考えられます。
 富豪は、立野牧・石川牧などの牧の管理・栄区の上郷深田遺跡にみられるような製鉄技術を握るとともに、耕地の開発を押し進め、また国府の機能の一部を担うなど力を強めていきました。やがて彼らは、土地をめぐる争いを通して、武装し、互いに結び付きを深めました。こうして武士団が出現し、彼らが次の時代を担うのです。






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