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zoom RSS Exhibition 横浜市歴史博物館 常設展「中世」

<<   作成日時 : 2015/07/26 16:13   >>

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横浜市歴史博物館常設展「中世」展示室の展示詳細


2015年7月15日
横浜市都筑区


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横浜市歴史博物館 常設展示室
http://hamacul.at.webry.info/201507/article_14.html








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常設展 中世 展示室




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中世


戦乱の中に生きる
1192(建久3)年〜1590(天正18)年

中世は、新しく力をもつようになった武士により、戦いが繰り返された時代でした。しかし、中世都市鎌倉に隣接する横浜の各地には、戦乱にほんろうされながらも、力強く生き抜く人々のすがたがありました。


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六浦の繁栄

 六浦は中世を通じて、政治・経済の中心であった都市鎌倉を支える港の一つとして繁栄しました。 「むつら」とよばれたこの地域は、鎌倉に幕府が開かれると、鎌倉に住む武士や僧侶、庶民たちの生活を支える物資が集まる港として、また内外へむかう海の玄関口として重要な役割を担いました。
 六浦には諸国から商人や職人などが多く集まり、さまざまな産業が発達し、大変なにぎわいをみせました。また、称名寺などを中心として、鎌倉に劣らない仏教文化が栄えた地域でした。


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栄えた港「むつら」

現在の金沢文庫駅や金沢八景駅の一帯は鎌倉時代「むつら」と呼ばれ、鎌倉を支える港の一つとして栄えました。六浦には商人や職人などが多く集まり、産業が発達しました。また、称名寺を中心として仏教文化が栄えました。


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陸の道と海の道




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平子氏の西遷

鎌倉時代になると、関東の有力御家人は、全国各地に領地を与えられ、一族を派遣します。これによって武蔵国・相模国の武士が全国に広がることになりました。
 たとえば、平子郷(磯子区あたり)に本拠地をおいた平子(たいらこ)氏は、周防国(山口県)や越後国(新潟県)の地頭となり、一族がその地におもむきます。中でも周防国仁保荘(山口市)におもむいた平子重経は有名です。やがて重経一族は仁保・恒富・吉田など土地の名を姓として独立していきました。


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鎌倉への道

 各地から鎌倉に通じる道は鎌倉道(かまくらみち)とよばれました。この道は鎌倉をめざす武士だけでなく、庶民・文化人・宗教者などが往来する道として、また中世都市鎌倉を支える物資を輸送する道として大きな役割をはたしました。
 市域には、上の道・中の道・下の道とよばれる3本の主要道が通っています。鎌倉道の要所には宿駅が設けられました。下の道沿いの鶴見などにも、鎌倉時代の末には宿駅が営まれ、道の両側には多くの家が軒を並べにぎわいをみせていました。


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大陸への海路

 六浦は、鎌倉時代を通じて中国との貿易の窓口の一つでした。ここからは、金銀や刀などが輸出され、中国からは多量の宋銭、仏典や書物、武士などに好まれた陶磁器が輸入されました。
 こうした貿易の担い手は、金沢北条氏でした。金沢北条氏は六浦・伊勢の大湊(三重県)・淀川河口など、大陸に通じる海の道の要所を掌握していました。
 貿易船は唐船とよばれ、鎌倉や六浦の人々の期待と夢を乗せて船出していきました。


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開運と六浦・神奈川湊

 六浦湊と神奈川湊は、東国の一大消費都市として発展した鎌倉を支える重要な港でした。
 鎌倉時代の末、六浦湊には房総や伊豆方面などから、年貢や物資を輸送する船が数多く入港し、これらの物資は、六浦道を通って鎌倉に運ばれました。また神奈川湊は、湾内の物資の流通にも大きく貢献しました。
 これらの港は、物資の管理や輸送にあたった「問(とい)」が営まれるなど、多くの商人たちでにぎわいをみせました。


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人々のくらしとさまざまな信仰




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人々のくらしと生活道具

 中世の人々の生活は、この時代の絵巻物によく描かれています。そこからは、当時のいきいきとした生活や表情が伝わってきます。
 生活に使われた道具の中には、現代とあまり変わらないものもありました。独楽や将棋・碁、双六などで遊ぶすがた、櫛や笄(こうがい)で身支度するすがたなどは、生活のいたるところにみられました。
 このように、当時の人々のくらしぶらりは、戦乱にほんろうされながらも、けっして暗いものではなかったのです。


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ものの値段

 鎌倉時代の中ころになると、人々は各地に開かれた市で、生活に必要な品物を買い求めるようになりました。売買される商品には、銭の単位である貫や文(もん)で値段が付けられ、代金は銭で支払われました。
 ある僧侶の日記には、豆腐7丁で24文、こんにゃく10枚で30文と書かれています。ほかの記録では扇子1本5文、硯1個25文ともあります。1文が現在のいくらにあたるのかはっきりしませんが、銭が人々の生活の中に浸透していたことがわかります。


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上行寺東やぐら群遺跡

 上行寺東やぐら群遺跡は、上行寺の東の高台にあり、中世六浦の信仰を考える上で貴重な遺跡です。ここからは阿弥陀像や五輪塔が浮き彫りにされたやぐら、多数の板碑(いたび)や石塔、寺院または堂と推測される建物跡がみつかりました。
 やぐらは、鎌倉を中心に分布する独特の墓で、武士や僧侶などの墓と考えられています。市域では、鎌倉に近い南部に集中してあります。
 この六浦湊をみおろす高台は、中世六浦の聖域ともいうべき存在であったと推測されます。


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葬送と他界観−地獄と極楽−

 中世になると、各地をめぐるさまざまな宗教者の活動によって、地獄と極楽の観念や仏教的な知識がより一層人々に浸透していきました。
 死後、充分な埋葬をされることがなかった人々は、寒々とした墓所の風景を地獄の風景と重ね合わせて考えるようになりました。このことが、人々に救いの手をさしのべてくれると信じられた阿弥陀や地蔵、観音への信仰を深める理由でもありました。
 中世の人々にとっては死後、地獄に落ちることから逃れることが、大きな関心の一つだったのです。


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開かれゆく村




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鶴見寺尾郷の世界

 中世には、これまで利用できなかった土地が次々と開かれていきました。人々は溜池や灌漑用水を利用して新しい水田を切り開いたり、大規模に畑を開墾したりしました。
 南北朝時代に作られた「鶴見寺尾図」は、こうした開発のようすを知ることができる絵図です。東は鶴見川を境とし、西は子安から白幡八幡宮、北は末吉、南は海岸線までの範囲が描かれています。
 この図からは、溜池や灌漑用水、台地上の「野畠」などの土地利用だけでなく、鶴見宿や集落の分布といった当時の景観がうかがえます。


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横浜村の登場

 農業技術の発達した中世は、土地の開発も進み、新しい村の成立がみられるようになります。
 横浜市の名称のもととなっている「横浜村」が、文献に現れるのも室町時代の中ころからです。
 当時の横浜村がどのような村であったかは明らかではありません。しかし半島状に長くのびた砂州の付根に位置することから、田畑を耕したり海で魚を捕ったりして生活する、いわゆる半農半漁の村であったと思われます。


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「横浜」登場!

横浜の名称のもとになっている「横浜村」が室町時代の文献にはじめて登場します。半島状に長くのびた砂州の付け根に位置していますので、田畑を耕し、海で魚を捕ったりして生活していたと思われます。
皆さんの住んでいる地名のもとを探ってみると、新しい発見があるかも知れませんね。


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戦国時代と村人

 中世の後半は戦国時代とよばれ、戦国大名による戦いが各地で繰り広げられました。市域は関東の有力な大名である小田原の北条氏(後北条氏)によって支配されていました。
 村人たちはふだんは農作業を行っていましたが、戦いが近づくと、武士によって戦いに駆りだされたり、物資を運ぶ人足(にんそく)として働かされることもしばしばでした。
 しかし、こうした時代も天下統一により終わりをつげ、平和な時代がおとずれます。人々の生活は、しだいに落ち着きを取り戻していきました。






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